- ブータン 心の旅
幸福こそ人のそして国家の究極の目標とし、ワンチュク国王が1972年にその概念を生み出しました。この国民総幸福量、いわゆる幸せの指標GNH(Gross National Happiness)により、「世界一幸せな国ブータン」として、特にGDP/GNPの増加を主眼としている先進国から今、注目されています。伝統文化保持のための国民に対する民族衣装着用の強制などが近年のスローライフなどのキーワードと組み合わされて語られる場合も多い。このような国に行ってきました。大国であるインドと中国にはさまれた小さな国。面積は九州の1.1倍、人口70万人、ブータン仏教(チベット仏教)の信仰、農業が主体の国です。
2007年に初めて行われたブータン政府による国政調査では「あなたは今幸せか」という問いに対し9割が「幸福」と回答したそうです。私も一人の少年に聞いてみました。答えはyes、we are happy.でした。少年の名は、Tshering Deki 10歳(写真左上)。写真奥に小さく写っているのがこの子たちの母親、両親と祖父母、計8人家族とのことでした。家は我々の感覚からみると大きい家に済んでいました。人懐っこい子供たちでした。
学校教育は英語で行われているため、ゾンカ語という民族の言語はありますが、第1言語は英語で、子供はもちろん若い人たちには英語が通じました。
今回のブータン旅行でわれわれの日常とはかなり異なったものを見てきました。国の指標はGNH、文化・伝統を重んじる政策、伝統的は建物とそこに描かれている壁画、人々の心に入っているブータン仏教と信仰、山間に開かれた棚田風景、人懐っこいブータン人、そして緑豊な季節では石楠花やその他の花々の咲く光景がみられる等、心に残る旅でした。
*** ブータンの位置 地図 国旗 国章 ***
国民総幸福量(Gross National Happiness)について
ブータンの政策の中では、国民総幸福量には4つの主要な柱があるとされています。それらは、持続可能で公平な社会経済開発、自然環境の保護、有形、無形文化財の保護、そして良い統治です。経済開発に一辺倒になって、自然環境が破壊されたり、ブータンの伝統文化が失われてしまっては、何の意味のないというのが、この政策の精神です。この国民総幸福量の増大の精神にのっとり、社会開発には特に篤い政策がとられています。例えば、医療費は無料ですし、教育費も制服代などの一部を除いて無料です。また、国土に占める森林面積は現在約72%で、今後も最低でも国土の60%以上の森林面積を保つ方針が打ち出されています。また、良い統治という面では、行政と意思決定の両面での地方分権化が進んでいます。人々は、自分達の住んでいる地域の開発プランについて、自分たちで優先順位を決め、中央政府に提案します。
- パロ国際空港に到着
まず目にしたものは、空港職員の姿と空港建物の外観でした。
キラ・ゴという民族衣装を着用し
ています、空港建物は伝統建築に従っている、これらを目の当たりにしてブータンへ来たんだとまずは感激したところです。近代的なでっかい空港ビルとは違った小じんまりしたもの静かな空港ビルでした。
谷間に切り開かれたパロ国際空港、ブータンでは唯一の空港です。インドのガヤを飛び立ち、しばらくして左にヒマラヤ山脈が見えてきます。そしてジョモラリ(7326m)を後にして降下を始めます。山の合間をぬってくねくねとまがりながら降下、着陸です。この空港に離発着するのは、1日に2機だけ、ブータン国営航空・Drukair(ドゥックエアー)のエアーバスA319です。他の航空会社は乗り入れていません。この2機が、バンコク(タイ)、デリー、コルカタ、ガヤ(インド)、カトマンドゥ(ネパール)、ダッカ(バングラディッシュ)の4カ国6都市とパロを結んでいます。操縦士・男子の客室乗務員はスーツ姿ですが、女性の客室乗務員はキラ姿でした。
- ブータン人の心、ブータン仏教(チベット仏教)
輪廻転生の道理のもと、自分はなにものかの生まれ変わりであり、死んだ後も何ものかに生まれ変わってこの世に帰ってくるのだと信じています。従ってお墓や位牌等はありません。しかし民家には立派な仏間があります。祭っているのは、釈迦如来(仏教の開祖:紀元前400年頃)、パドマサンババ(チベット仏教のニンマ派をブータンに伝える:西暦700年頃)そしてシャプドゥン・ンガワン・ナムゲル(現在のブータンの基を作った歴史的な英雄:西暦1600年頃)です。お経を唱えたり、お寺にお参りに行ったりという宗教行為は、来世で少しでも良い境遇に生まれられるようにという願いのもとに行われているのです。

農家の裏の空き地や小高い丘にあるダルシン(経文旗)は、幅50cm位、長さ5m位の薄い布に経文が印刷されたもの。白い布が多いが仏教の5色それぞれの布もありました。黄は大地、緑は森、青は水、赤は火、白は風を表し、風にはためくことで経文の功徳が全世界にいきわたることを祈念しているそうです。竿の先の部分には剣の装飾が施されています。

ルンタ(Lung-ta)」とは、チベット語で「風の馬」を意味します。
ルンタ(風の馬)は、約50cm角の布に経文を印刷したもので、5色のものが多く万国旗の様な状態で吊るされています。一回はためく毎に1回お経を読んだことになると信じており、風にのせて祈りを天に送ります。
寺院や街中、街道筋などで極彩色の「マニ車」を見かけます。内部に経文を修めた回転体で、下にある取っ手の部分を時計回りに回します。高さが2m位のものから30cm位のものまでいろいろあります。また、山中の水の流れを利用して回しているものもありました。皆、無心に「まに車」を回し続ける、極楽浄土への願いを込めて、いつまでも回す。マニ車が一回転するごとに1回お経を読んだことになると信じています。1日中マニ車を回しているという人を見かけました。
- ブータンの伝統建築
寺院、ゾン、仏塔、民家が大体の建築物です。これらのの壁面には仏教に関連した絵が描かれています。宗教的なシンボルで吉祥紋といわれるものが多く、また水瓶を持った老人や象の上にサル、その上にウサギ、その上に鳥が乗った絵もあります。曼荼羅もよく描かれています。
ブータンの農家は世界の住宅の中でも大きい部類に入ると思います。個々の家の規模が大きく、他の家とかなり離れています。農家の基本的な構造は、1階は家畜小屋で2階の住居空間のためのある種の床暖房にしている。外に階段があって2階から入るのがブータン式。2階が住居で、どの家も大きい仏間をもっており、明るい部屋で応接間や客間としても使われています。台所、居間があり特に寝室というものはなく、大家族が適当に寝ているようでした。農家の見学をさせていただきました。
以下の写真が農家の内部です、有難うございました。
現在国道に沿って新しく発展しつつある町の中の民家の建築方法も基本はあまり変わりませんが、外壁は変化しているのが解ります。古い民家の外壁には吉祥紋などいろいろな絵が描かれています、入り口の壁面には男根が描かれています、また入り口に男根の形をしたものがつるされています。これは五穀豊穣、子孫繁栄のおまじないらしい。しかし新しい家になるとこの伝統は失われていくのでしょうか。
 新しい民家には壁画が見られません。外壁の様子も違います。
ゾンと呼ばれる建築物があります。
これは、17世紀初頭にブータンを建国したンガワン・ナムゲルが各地に建設した城塞・政府機関・僧院を兼ねた大建築物です。しかし、すでに行政機関としての機能をなくしたのも、民家と変わらないもの、廃墟と化したもの、とその実態は多様です。今回、2か所のゾンを見学しました。城塞の機能としてゾンの周りには堀がめぐらされ一つの橋を介して出入り可能となっています。数十人から1000人を超える僧侶が暮らすドゥック派の大寺院であると同時に地方行政区を司る県庁としての役割を果たしています。ゾンの基本構造は、僧侶の住居や行政の執務室になる回廊式の外壁が四方を取り囲み石畳の中庭に天守閣の様なウツェと呼ばれる中央塔がそびえるというものです。ゾンの内部は脱帽は勿論のこと、大きな声を出してはいけない。ブータン人がゾンに入る時は正装であることを示すカムニ(スカーフ)を纏うことが義務付けられています。多くの小僧さんが修行していました。一家に一人出家させているそうです。これは輪廻転生のの道理によるお坊さんの生まれ変わりと考えているそうです。
寺院
寺院(ラカン)は、ブータン建築の基本とも言われている。小さくなれば民家であり、多くなるとゾンです。ブータンでの建築物はほぼ同じような印象を受けました。柱や窓枠には細かい装飾がほどこされ、色鮮やかに模様が描かれていました。民家ではタシ・タゲ等が多く描かれ、寺院では仏像や輪廻図、マンダラ等が描かれていました。窓枠の形が大小はあるが同じ形をしていました。これもブータンの伝統建築の保存を考えた政策でしょうか。
タクツアン僧院(パロ)
今回の旅行のハイライトであるタクツァン僧院、手前の展望台まで行きました。標高は、パロ:2300m展望台:2800m、僧院:3000mです。駐車場(2400m)から展望台まで2時間かかりました。それほど厳しい道ではありませんでしたが、馬に乗って登るドイツ人の若いお姉さんがいました。展望台でコーヒータイム、紅茶とクッキーが出てきました。おいしかったです。
ブータン人に仏教を広めたパドマ・サンババが8世紀にこの地に降り立ち瞑想したと言われている。その後、巡礼者の訪問が続き、チベット仏教の聖地となったそうです。この地タクツアンには13の聖地があり、一般にタクツアン僧院と呼ばれている建物は、17世紀の終わりにテンジン・ラブゲが建てたタクツアン・ペルプです。500mほどの切り立った絶壁に建っている僧院を下から眺めるとどのようにして建てたのか、宙を飛んできたのかと思います。寺院の内部には、パドマサンババやその八変化相の像などがあるそうです。
今回は展望台まででしたが、僧院までは道がありますので機会があれば行ってみたいです。
キチュ・ラカン(パロ)
3層の屋根の堂が2つ並んで立っています。旧堂は釈迦を中心に十一面千手観音等が安置されています。床には珊瑚やトルコ石などがはめ込まれ仏像や仏具が並べられていました。新堂は1968年に建立されパドマサンババの巨像が安置されています。五体投地を繰り返し行ったために出来た足跡がありました。中庭にはミカンの木がありました。
村のお寺というような雰囲気でした。
ティンプーのデチエン・ポダン
ラカンの中にはシャブドウンの像などがあります。朝夕に鐘を鳴らす唯一の寺だそうです。現在は寺院であると同時に、国立僧侶学校となっており、寮が横にありました。
- 典型的な農業国
ブータンでは標高2700m近くまで稲作がおこなわれており、世界最高所の水田だと言われています。
訪問した都市の標高です。
パロ:2300m
ティンプー:2400m
プナカ:1350m
ワンデユボダン:1350m
しかし、厳しい地形に阻まれ小規模な農地が大半を占めるため、土地生産性も改善されないようです。旅行中、山の斜面に広がっている美しい棚田の景観を見ました。冬場、乾季で緑美しいとは言えませんでしたが唯一なたねの緑が映えていました。ブータンでは九穀(ソバ、ダッタンソバ、大豆、米、小麦、大麦、ヒエ、アマランサス、アワ)が育つと言われて、米作りに適さない土地ではトウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ等がつくられ主食となっています。我々の食事には、赤米がよく出てきました、味は悪くなかったです。そばも出ましたが、残念ながら日本のそばのほうがおいしいですね。
- 弓は男のたしなみ
ブータン式の弓(ダツェ)は競技人口も多く、何ヶ所かで試合や練習をしているのを見かけました。
試合は10人くらいを2組にわけ、130mほど離れたお互いの陣地にある直径50cm位の的を狙うものです。的に矢が当たるたびに歓声をあげ、勝利の歌と踊りを披露する。1試合に1日を費やすこともあるそうです。実際の試合を目にしましたが、楽しくのんびりという面持ちでした。的までの距離の遠さに驚きました。しかも的を射ていました。ブータン式ダーツ(クル)もありました。弓と同じようなルールですが、的までの距離は20m位でした。
- 交通事情
移動手段は、公共機関としては、路線バス(中型バス)やタクシー(SUZUKIの軽自動車等)、自家用車も軽自動車が主でした。輸送はトラックです。牛車や馬車は見かけませんでした。
道路は、往復2車線の広さ、舗装は3/4位しかされていませんでした。もちろんセンターラインなどありません。山の斜面を削り取った道路で、真っ直ぐの道はありませんでした。唯一パロからティンプーの間は、片側2車線往復4車線の道路がありました。高速道路と呼んでいましたが、日本の一般道です。
信号機はありませんでした。
トラックの目、何のまじないでしょうか。ほとんどのトラックのヘッドライトの上に描かれていました。ネパールにはスト―パの目というものがありました。仏塔の上部に東西南北の方向をみて大きい目が描かれていました。「四方を見渡すブッダの智慧の目」これと同じでしょうか。ボンネットの色は、白、赤、青がほとんど、どのトラックも色鮮やかな模様が描かれています。
空港の客待ちのタクシです。すべてインド製の軽自動車でした。タクシーの色も白、赤、青でした。トラックと同じ色です? ネパールでもタクシーは同じような状況でした。
- 市街の様子
この旅行でティンプー、パロ、ワンデユ・ボダン、プナカの4つの町を訪問しました。プナカはゾンの見学で市中には立ち寄りませんでした。
首都ティンプー
ブータン王国の首都でブータン最大の都市。人口は約10万人。 市街地はウォン・チュ川(Wang Chuu)のつくりだした峡谷の西の斜面に広がっていいます。地方からの人々の流入で中心部の再開発や郊外の都市化も進行しています。建築中の建物を多く見ました。ウォン・チュ川のそばには野菜マーケットなど市場があり、賑わっていました。 メインストリートのノルジン・ラム通り(Norzin Lam)にはホテルや商店やレストランが連なっています。切手の発行も重要な産業のようです。マイクロCDの切手がありました。世界で唯一の信号のない首都です。近年車が増え一方通行や駐車禁止の場所も出来たようです。交通渋滞の時はお巡りさんがこの中に入り、交通整理をするそうです(上右の写真中央)。
パロ市街
パロ県の中心となる町、唯一の空港のある町でブータンへの入口です。,
パロ・ゾン(前述)、タ・ゾン(国立博物館)、キチュ・ラカン(前述)、タクツァン僧院(前述)等があり、また商店街や野菜市場は人で賑わっていましたが、我々の現代社会とは違うものを感じました。これは、パロだけではなくブータンの国全体がこのような社会が構築されているのです。
ワンデユ・ボダンの町
ワンデユボダンの中心街は、ゾンの門前にあり、せいぜいサッカー場くらの広さで、これが全てです。中央付近にガソリンスタンドがありこれを中心にまわりを囲むように商店が立ち並んでいました。学校もありました。この町は、道路拡張のため街全体が今年中に近くに引っ越すとのことでした。2kmほど離れたところに住宅が多く建設されていました。
プナカの街
1955年にティンプーが通年首都になるまでの300年余りの間、プナカはブータンの冬の首都でした。プナカ・ゾンは歴史的に最も重要なゾンですが、何度も火災や地震、水害などで再建・改築・増築が繰り返されもっとも美しく完成されたゾンとのことでした。
このゾンに入る橋のたもとには、以前は多くの商店が立ち並んでいたそうですが、現在は地形の良いところに開かれたクルタンという市街に移転したそうです。
- 日本人の活躍
ダショ―と呼ばれた日本人(ダショーとは貴族・政府高官に送られる爵位)
1992年に没するまでブータンで仕事を続け、ブータン農業の改善に尽くした西岡京司さん。1980年に、国王から「ダショー(最高の人)」の称号を授与されました。その人の墓参りをしてきました。
伝統的な農業手法を固執するブータン人に日本式農業の利点を教え、次第に支持者を増やし、ついには国王指示でデモンストレーション農場を作るに至りました。西岡さんの功績は、パロを中心ににした近代的稲作技術、野菜やジャガイモの栽培技術の導入等でした。国際協力機構(JICA)からの派遣は、当初2年の予定でしたが延長を重ね、28年にも及びました。
石州和紙と国際交流
石州和紙を通じてのブータン王国と島根県三隅町及び石州半紙技術者会の交流は1986年から始まりました。この間、三隅町ではブータン王国からの技術研修員の受け入れ事業と和紙製造技術専門家の派遣事業を推進し実施しているようです。今後もブータン王国の培われた風土と資源に石州の和紙技術を取り入れ、、素朴で強靭なブータン王国の伝統的手すき紙の向上を目指しているとのことです。
- おわりに
日本の田舎へ来たという雰囲気でした。山がすぐ目の前に迫ってきます。全体がゆったりとしています、通勤ラッシュなんてものはない、もちろん車の渋滞はない。しかし、その中で衣装や建物など伝統文化を重んじる国を見ました、静かな国でした、落ち着きを感じる国でした。いつもうるさく付きまとう物売りは一度も来ませんでした。伝統的な建築、衣装そしてブータン仏教に根差した生活、満足しました。
ジョモラリ(7326m)も見えました。
お世話になったバスです。窓にクッションが見えますが、よく揺れるので窓で頭をぶつけないようにとの心遣いです。道路事情からみるとこのバスが限界です。ツアー客11名、ツアー添乗員1名、現地ガイド1名、運転手1名、計14名で4日間このバスに揺られ約350kmの走行でした。スーツケースは屋根に積みました。
ブータン旅行中、日本の携帯電話はすべての場所で通じました。インターネットカフェもありました。私のホームページを閲覧することも出来ました(余談ですが中国では閲覧できません)。このような面では近代化が進んでいます。
kadrinche(カディンチェ、ありがとう)
|