- はじめに
この旅行は、宇治市の咸陽市公式訪問団に参加し、咸陽、西安、蘇州、無錫そして上海に行ってきたものです。
1986年(昭和61年)7月24日に咸陽市と宇治市が友好都市提携締結されました。その後、相互にスポーツ交流や音楽交流等が行われている中で、咸陽の子供たちに本を送る会が定期的に小学校に本を送ったり、黄土高原植林緑化事業を行うことなどで友好を深めてきたようです。
今回の訪問でこの植林事業の視察を行いました。実態は、植林は行われているものの、まだまだ地肌がでており、緑の森には程遠いものでした。黄土高原の厳しさを感じました。
また、中国咸陽ー日本宇治第13回切手収集展の開幕式にも参列しました。これは、日本に「日本郵趣協会」というものがありその「宇治支部」と咸陽市との友好展示会を視察しました。
- 訪問団とスケジュール
訪問団
市民訪問団 25名 以下のスケジュールにて行動
行政訪問団 4名 小学校の訪問等咸陽市のスケジュールにて行動、
22日に帰日。
合計 29名
2009年11月17日 宇治市役所にて出発式。関西空港を出発、北京経由で西安着、その後バスにて咸陽市に
20時に到着しました。(時差1時間、日本時間21時)
ちょうど寒波来襲の時期で北京空港は0℃、咸陽では雪が残っていました。
零下数度とのことでした。
18日 中国咸陽ー日本宇治第13回切手収集展の開幕式に参列、見学
宇治友好の森を視察 これらについては地元の新聞やインターネットで公開されました。
乾陵(唐高宋と則天武后の合同墓)、乾陵博物館(唐永泰公主墓)を見学
歓迎宴会
19日 西安兵馬俑博物館、陝西歴史博物館、大雁塔、西安城壁見学
20日 蘇州に移動
拙政園見学
21日 寒山寺、虎丘斜塔見学後運河巡り
無錫へ移動
22日 太湖巡り、湖畔散策
上海に移動
23日 豫園、上海老街、外灘、ワールドフィナンシャルセンター展望台見学
24日 上海博物館、新天地散策の後、上海浦東空港へ
20時15分関空着、その後市役所で解散式。
- 咸陽市のあらまし
中華人民共和国陝西省に位置する、総人口(2004) 504 万人を有する地級市。前352年に孝公が咸陽城をつくって都をここに移し、かつては秦朝の首都として大いに栄えた。その後、楚漢戦争に勝利した劉邦により、咸陽郊外の長安を前漢王朝の首都に定め、長安が繁栄していった。
市内には、乾陵、昭陵、茂陵をはじめ、楊貴妃の墓や兵馬俑坑などの史跡が多く残されています。
陝西省の位置(赤色、薄黄が中国図)
咸陽市、西安市の位置(黄色)
咸陽市街図
- 黄土高原について
写真:緑の地球ネットワークより
中華人民共和国を流れる黄河の上流および中流域に広がる高原。この数千年間に起こった戦乱、森林伐採、過剰な開墾・放牧などにより、黄土高原の植生は破壊され、土壌の流失が加速し、一帯の地形は無数の水流が削ったために溝だらけのような状態になっている。高原は北西から南東に傾斜し、海抜は1,000mから2,000mの間で、岩石の多い山地を除き、大部分は黄土が地表を覆っている。降水による長年の浸食で平らな地形を刻む特殊な景観が見られる。
砂漠化や土壌流失の進行を食い止めるため、中国政府は多数国間から融資された巨費を投じて黄土高原の再生計画(水土保持プロジェクト)を開始し、植林事業や、農民を教育して牧畜や農耕を行わせる事業などが行われた。また日本などによる政府開発援助(ODA)や民間団体の活動も黄土高原緑化事業に貢献した。これらの結果、一部地域では樹木や草の緑が戻り、農業が復活するなどある程度の成果を挙げている。
- 宇治市の黄土高原緑化への取り組み
宇治市は平成13年10月(2001)に黄土高原植林緑化事業推進協議会が第1回目の訪中を行い、陝西省咸陽市永寿県で緑化事業を開始した。その後、計7回にわたり訪問し、ニセアカシア,アブラマツ,コノテガシワ,イチョウ,サルガキ等を植樹し緑化をすすめ一定の成果を得ました。今回の訪問はこの成果の確認のため、緑化を行った友好の森へ行ってきました。寒波来襲の後、雪が残っており、零下数度と言う中で、咸陽市関係者と共に、パトカー先導で友好の森を視察しました。今までに見たことのない地形が目に入りました。大きく削られた山肌、大きい谷そして山肌に掘られた横穴。これがまさしく前述の黄土高原でした。そしてこの横穴は、人の住居だったとのことです(窯洞ヤオドン)。この穴は、現在も貯蔵庫として使っているところもあるそうです。
緑化の必要なことがこの状態を目にしてよく解りました。しかしながら高度成長を続けている中国にこのような援助をする必要なのかとの疑問も感じました。
- 中国咸陽ー日本宇治第13回切手収集展
開会式に参加しました。代表者の挨拶とテープカット、屋外でのセレモニー、大変寒かったです。
中国や日本の切手、封筒等が展示されており、広さは写真のようなブースがこの反対側にもあるという小じんまりした会場でした。
- 乾陵見学 咸陽市
乾陵は、唐代の第3皇帝の高宗(在位649〜 683)とその皇后であり中国唯一の女帝であった則天武后(在位690〜 705)が眠るお墓です。咸陽から 50km 余り,乾県の県城の北方6kmの梁山にある。海抜1048mに位置して、広大な規模で、気迫がみなぎる。最も代表的な唐朝の陵墓。参道には馬、武官、文官などの石像がズラリと並ぶ。中国の数ある陵墓の中でも夫婦共に皇帝となり,その夫婦を合葬墓に葬っている陵墓は,唯一ここ乾陵だけです。
則天武后が造らせた当時文字が刻まれていなかったという無字碑。
六十一賓王像、両側で合計120人ほど高宗の葬儀に参列した各国の来賓たち。服装が各々違う。後世の破壊で頭部はすべて欠けている。
標高1048mの梁山に続く真っ直の道、左右には朱雀門跡があります。
梁山と反対側にもまっすぐの道。神道から北峰を背に,正面の南方向を望むと東西2つの南峰が天然の門闕を成している。神道の両側には石人や石馬・馬佚(ばいつ)が陵墓を護っています。
- 乾陵博物館見学 咸陽市
乾陵周辺には、高官やその近親者の墓が多く、なかでも則天武后の怒りに触れ、17歳の若さで没した悲運の少女、4代中宗の第七女、永泰公主の墓があります。現在乾陵博物館となっています。墓の中には、色鮮やかな女官の壁画が描かれています。永泰公主の壁画は、奈良の松塚壁画のモデルといわれています。中宗は則天武后の死後、洛陽にあった娘の墓を乾陵の近くのこの地に移し葬りました。墓は1960年に発掘。墓道の壁画は現在陝西歴史博物館に保管されています。(墓道内部にある壁画は1970年の復元です。)
- 西安兵馬俑博物館
1974年3月、春先の風が寒い頃、西狭省臨潼県の東にある西楊村で農民、楊培彦・楊志発等数名が井戸を掘っていて偶然にも何片かの陶俑のかけらや青銅の矢じりなどを掘り出し、いとも簡単に世界の八不思議の一つの扉を開けたのである。兵馬俑坑は発掘された順番に1号坑2号坑3号坑の名がつけらている。
中国、秦の第一世皇帝(在位 (前221-前210)。第三一代秦王。名は政(前259-前210) 。紀元前221年戦国の六国を滅ぼし、初めて中国全土を統一、自ら皇帝と称した。郡県制を施行して中央集権化を図り、焚書坑儒(ふんしよこうじゆ)による思想統制、度量衡・文字・貨幣の統一、万里の長城の増築などを行なった。
三省堂「大辞林 第二版」より
兵士の俑の大半は西の秦始皇帝陵墓に背を向けるように東を向いており、編制は前鋒の主要部隊、左右の側方部隊、後方の防衛部隊の四つに隊に分れている。
兵馬俑坑はこの秦の始皇帝の死後の世界で、始皇帝を守るために皇帝の陵墓の近くに造られたのである。
- 陝西歴史博物館 西安市
先史時代から清代までの各時代の文物が展示されています。
特に則天武后の母の陵墓から出土した巨大な獅子像、先史時代の彩陶瓶、殷周代の青銅器、朱雀や玄武が彫り込まれた前漢時代の瓦、唐代の陵墓から出土した壁画や唐三彩、人間の代わりに殉葬された俑陶等が有名な様ですがよく解りませんでした。
先に見学した乾陵や永泰公主の墓から出土された文物が多く展示されていました。
- 大雁塔(慈恩寺) 西安市
慈恩寺は、唐の第3代皇帝の高宗(628-683)が母である文徳皇后供養するために建立した仏教寺院。
寺院内には、山門、鐘楼、鼓楼、大殿、大仏殿、大雁塔、玄奘三蔵院など、玄奘三蔵に纏わるものがあります。四角7層、高さ64mの大雁塔は、この寺院内の建物のひとつで、玄奘三蔵がインドから持ち帰った大量の経典や仏像を保存するために建立されたものです。今回は大雁塔のみの見学で残念でした。
玄奘の一大旅行記である西域記を骨子に仕立てられた西遊記は、サルの孫悟空が豚のお化けの猪八戒や河童のお化けの沙悟淨を従え天竺へお経を取りに行く三蔵法師のお伴をするという物語で、中国の四大奇書のひとつとして有名です。
- 西安ぶらり
西安では3泊しました。上記の他に、西安城壁見学の見学や有名なぎょうざ屋「徳発長」での餃子宴を楽しみました。出てくる餃子はすべて蒸し餃子で、さまざまな色や形、食材と楽しませてくれました。鼓楼や鐘楼はライトアップされており夜を美しく輝かしていました。
- 拙政園
宋代の滄浪亭、元代の獅子林、明代の拙政園、清代の留園の4つに時代にそれぞれ作庭起源をもつ庭園を合わせて"蘇州四大園林"といわれています。蘇州古典園林のうち、拙政園と留園は中国四大名園の二つに数えられます。この蘇州古典園林が世界遺産に登録されています。
拙政園は、1509年(明王朝の正徳4年)に官僚の王献臣によって造営されました。王献臣は官僚を追放され、故郷の蘇州に戻りました。愚かなものが政をつかさどるという意味で「拙政」と名をつけたという説があります。東園、中園、西園の三つの部分に大きく分けられ、全体の約5分の3を大小の蓮池が占めています。蓮池の周りに東屋、橋、回廊、緑が水面に映って美しい景観を構成します。
この庭園は、中国の四大奇書のひとつ「紅楼夢」の中で、華やかな貴族の暮らしの舞台となっています。
- 蘇州ぶらり 寒山寺、虎丘斜塔、運河巡り
臨済宗の仏教寺院で寒山拾得の故事で名高い。楓橋路に面している。唐代の詩人張継(ちょうけい)が詠んだ漢詩「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」の石碑があることで知られています。創建当初は妙利普妙塔院と言われていましたが、寒山と拾得が住職となったのを機に寒山寺と名付けられました。大雄宝殿・羅漢堂、鐘楼、寒拾殿、普明宝塔等見どころは多く、大雄宝殿の前庭には香炉が置かれており、常に参詣客の線香が絶えませんでした。
虎丘は春秋時代の呉王夫差(ふさ)が父の闔閭(こうりょ)を葬った陵墓です。葬儀の3日後に、墓の上に白い虎が現れたことから虎丘と呼ばれるようになったといわれています。丘の上には蘇州のシンボルである北宋年間(961年)創建の雲岩寺塔(別称虎丘塔)がそびえ立つ。高さ48m、八角七層の古塔は中国で最も古い塔の一つで全国重点保護文物に指定されている。たびたびの火災で傾き、中国のピサの斜塔とも言われている。 試剣石、 剣池、枕頭石、千人石 、天下第三泉 など見どころがたくさんあります。
そして、虎丘から山塘まで遊覧船に乗ってその運河沿いの古い町並みは風情たっぷりです。
一昨年に同じコースを巡りましたが、人が多いですね。そして無錫へ移動。
- 無錫ぶらり 太湖巡り、恵山寺、無錫の街
無錫到着後まず錫恵公園の中にある恵山寺へ。恵山寺の主な見所は唐、宋の経塔、金剛殿、雪花橋、日月池、御碑亭など、古華門の東側へ行くと寄暢園です。明代の正徳年間、当時の兵部尚書秦金が解職されたとき、ここに庭園を造り、「風谷行窩」の名を付け、後に、寄暢園に改称されました。1684年、改築され、中国造園の粋が集められ、完璧な美が造り上げられました。恵山泉、陸子泉とも呼ばれる天下第二泉があります。この泉は唐代の大暦元年から十二年(紀元766〜777年)の間に掘り開かれた。中国の茶聖陸羽が、著書「茶経」のなかで、恵山泉を天下第二泉と定めています。虎丘に天下第三泉がありました。さて天下第一泉は何処に。その後ホテルへ。
夜の無錫、ぶらぶらしていると大きいショッピングセンタへ、高級ブランドの店がいろいろありました、大都会です。ちょっと下町っぽい所へ行くとたこ焼きの店がありました。大阪のたこ焼きとよく似ていました。
翌日は無錫旅情で知られている太湖巡り、しかし霧がかかっており良く見えませんでした。調べてみると、1986年、無錫市は、国際観光市場への参入を政策決定し、まず日本の作詞家・作曲家を無錫の民謡に触れる旅に招待したそうです。作詞家・中山大三郎も、5日間無錫を観光し、帰国後10日も経ずに、「無錫旅情」など2曲を作り上げたそうです。「無錫旅情」は、その年の日本レコード大賞を受賞し、年末の紅白歌合戦でも歌われました。
その後上海へ移動。
- 豫園と豫園商城、上海老街
中国きっての伝統的中国式庭園、「豫」は愉を示し、すなわち「楽しい園」という意。明代の役人であった潘允端が、父の潘恩のために贈った庭園で、1559年(嘉靖38年)から1577年(万暦5年)の18年の歳月を費やし造営された。園内は5つの景観区と内園に分かれ各々に趣の異なる風景が広がる。いくつもの堂楼、大小の池、巨石が配置され楽しませてくれます。
また豫園の西側には豫園商城と言われるショッピングマーケット、そして上海老街があり通りには江南風建築の洋服店や小間物、土産物などが並んでいる。小さな店がぎっしりと並んでおり、ごちゃごちゃしているがまさしく中国と言う感じの面白い街です。
- 上海博物館
故宮博物院、南京博物院と並んで中国三大博物館と言われていますが、これらの建物と異なって近代的は建て方の博物館で、1階から4階まであり中央が吹き抜けになっており日差しが入り明るい。この博物館の外観は最上部に円盤を頂き、下部が鼎の形状を模しています。このような外観は、天円地方という古代からの中国の世界観、宇宙観を示していると同時に、鼎に代表される青銅器コレクションを示しています。
収蔵品の内、耳目を集めるのは青銅器であり、紙幣・書画・絵画・磁器陶器・印璽・家具など収蔵品も多い。全て清代以前のコレクションであり、近現代のものはほとんど収蔵されていない。見て飽きませんでした。
- 上海ぶらり 夜の南京路歩行街、新天地、外灘、ワールドフィナンシャルセンター展望台
いろいろなことで声をかけてくる。気をつけないといけない街ですが、しかし人間ウオッチング、ショッピング等面白い街です。
フランス租界の街並みを再現したレトロ&モダンな場所です。茶館に入り、中国茶を飲みました。色々は種類のお茶が楽しめます。
租界(そかい)は行政自治権や治外法権をもつ清国(のちに中華民国)内の外国人居留地で、最も有名なものが上海の共同租界やフランス租界です。アヘン戦争をきっかけに、イギリスやアメリカ合衆国、フランスもそれぞれ土地を租借し、租界となった。租界時代に華やかな文化が花開いた外灘には、欧風の歴史的な建造物が立ち並んでいます。
森ビルの造った上海浦東新区・陸家嘴金融貿易区に誕生した上海環球金融中心。地上101階、高さ492mの「垂直の複合都市」。国際金融センター機能を中心に、世界一の高さとなる展望台、世界中から人々が集う商業施設やカンファレンス施設、最高級ホテルなどを擁します。建物の最上層部、天空に大きく開けられた窓は、上部に展望室があり足元はガラス張りです。
- 中国今昔
西安は今回で3回目(1992、2009、2009)、上海は5回目(1988、1992、2000、2009、2009)です。1992年に上海、西安、北京を旅行をしました。その時の写真を比べました。中国は大きく変わりました。
1992年当時、中国では外国人が観光や商用で外貨を両替すると渡される外貨兌換券(FEC)と一般の中国人が使用する人民幣(RMB)の2種類の通貨が流通していました。 外貨兌換券は中国政府が外貨を管理するために1979年に導入した紙幣です。 額面の価値は同じでしたが、外貨兌換券は人民幣で買えない外国製品が買える等の特別な扱いがありました。観光地の入場料金に兌換券と人民幣の金額が併記されていたのを覚えています。街の中は、自転車があふれていました。いまだに中国と言えば自転車と人民服を連想するのですが、しかし発展し大きく変わっています。大雁塔から見た西安の町並みは完全に変わっています。今では、大きいビルが立ち並んでいます。
1992年の上海
2009年の上海
1992年の西安
2009年の西安
- <おわりに>
いろいろと書きました。中国と言う国、国の政策や今問題になっている著作権に対する考え方などなかなか理解できない、納得できないところはあります。しかし、自然や文化は大変面白いと思います。桂林、張家界、武夷山、九賽溝等々の自然、寺院や石窟等の文化遺跡そして三国志をはじめとしての古典文学、奥深いです。まだまだ行くところはあります。楽しいです。
宇治市の咸陽市訪問から始まり、中国の観光情報で終わります。
謝謝大家(シェ シェ ダージア みなさんありがとう)
|